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家族一同より
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今現在、難病と闘っております息子、勲は1979年5月29日 朝8時58分、元気に産声をあげました。私たちが初めて乳児室の勲と対面した時、どの赤ちゃんよりも一番元気に手足を動かしていましたので名前を「勲」と名付けました。
その後も勲はすくすくと育ち、小学校へ入学してからは大きな病気もせず健康で、スポーツ、遊びにと明け暮れて日々を送ってきました。
13歳、中学校へ入学し学校健診の「心電図」で異常が見つかりました。当時の学校医から「肥大型心筋症」と診断され、病状の説明を受けた時はまず自分の耳を疑いました。そして「この病気は突然死が起こる病気です。」と言われた時には、もう目の前が真っ暗でした。言われた本人は何が起こっているのかも把握できず、そのまま経過を見ることとなりました。
私自身もこの事実を受け止められず、これはきっと何かの間違いだ、我が子にかぎって絶対にそんな事があるはずがない!と受け入れられない日々を過ごしてまいりました。
しかし、この病気を現実として受け止めなければならない出来事が起こったのは、勲が専門学校を卒業し、社会に出て間もない頃でした。
まず始めは足の腫瘍、その後、大した勾配もない坂道でも休まなければ登りきれないようになり、何時しか自分の病気へのどうしようもない不安が沸き起こってきたのかも知れません。初めて本人の口から「病院へ行ってくる。」と言ったのは20歳の時でした。そしてそのまま入院となったのです。その時は不整脈「心房細動」を発病し、電気ショックで不整脈を止めました。
それからというもの、急激に勲の体は悪くなっていきました。頻繁に不整脈を起こし、心臓が血液を上手く送り出すことが困難になりました。そのため脈も微弱で気を失うこともありました。
平成15年3月10日 植え込み型除細動器(ICD)を胸に埋め込む施術を受けました。そしてそのICDによって一時期、脈は安定に保たれるようになりました。
闘病中でありながらも勲は就職活動を始めていました。私たち家族はのんびり療養させたかったのですが、本人は納得していなかったのですね。周りの友人たちに遅れをとりたくなかったのだと思います。障害者向け企業への就職活動に一生懸命でした。そして快く受け入れて下さったのが今現在在職している会社です。就職が決まった時、本人はそれはもう嬉しそうだったことを今でもよく覚えています。私たち家族も本人の負担を少しでも減らそうと毎朝駅まで車で送りました。
意気揚々で仕事に打ち込めたのも束の間、確実に病状は進行していきました。段々会社も休みがちになり、2006年5月頃から更に体調が思わしくなくなっていきました。それまで本人は我慢していたのだと思いますが、私に足首の異常を訴えてきました。その足を見た瞬間、これは何か大変なことが起きていると直感しました。とても普通の足ではなかったのです。何かで叩かれたような痣?というほどのうっ血状態でした。病院で検査した結果「右心不全」「拘束型心筋症」と診断され、「残念ながらこれ以上の治療は不可能。」と告げられました。
私たちはどうしたら良いのか?この子に私たちは何をしてあげられるのか?途方にくれる毎日でした。
以前より、末期の心臓病治療として「移植」が最後の手段であると聞いていました。私たちは迷いました。しかし、このままでは勲を助けてあげる事は出来ないのです。以前のように将来の夢、友人との交流、そしてもう一度彼に普通の生活を送らせてあげたい。ただそれだけの思いでいっぱいです。勲の人生はまだまだこれからなのです。
話し合った結果、私たちは海外での移植を決意致しました。現在お世話になっております病院のスタッフの方々には、最後の治療のチャンスを彼に与えて下さった事を大変感謝しております。
受け入れて頂ける海外での病院も決まりました。ただそのためには莫大な資金がかかり医療費、渡航費、滞在費、諸所合わせて約50万ドルかかります。私たち家族だけではどうすることも出来ず、一時は諦めかけたのですがやはり本人、勲の将来を思いましたら、彼を助けてあげられるのは私たちしかいないのです。
今回このような手紙を書かせて頂いたのは、皆様にお力を借りるしか方法がなく、ペンをとらせて頂きました。
どうか、どうかご協力をして頂けないでしょうか。
切なる思いをお伝え申し上げます。
村田安弘・八千代 平成19年11月19日
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東京都江戸川区在住の勲君は「拘束型心筋症」という病気で心臓移植を受けました。
ご協力をいただいている方達
ご協力をいただいたすべての方たちに、感謝いたします
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